六月というのは水の月だ。旧暦で水無月と書くが、この際の、無は「なし」ではなく「の」という意味らしい。梅雨が始まるこの季節、水の月という表現は、直球な表現ということになる。一方で水の月という言葉は、素敵な響をもつ。文字だけみると、お空に浮かんでいる月がこんこんと水を讃えているイメージが湧いてくる。地球を水の惑星というが、月も水の惑星だったらどんな風に、地上から見えるのだろう。話が妄想で広がってしまったが、六月の梅雨は単純に嫌いでは無いのだ。
沖縄の西表島に住んだことがあるのだが、降水量が年間2,200mmと非常に多い場所だった。島の中央の山には大海からの雲がぶつかり、留まり、雨を降らす。そこから多くの滝や川が派生し観光資源となっている。離島というと水不足に悩ませされることが多いのだが、西表島は雨に恵まれた島、言い換えると水の島だ。
ここで私は雨が嫌いでは無くなった。雨は濡れてはいけないという発想が無くなった。沖縄の雨は暖かく、そして柔らかい。濡れることが気持ち良かった。雨って濡れても大丈夫ということ。雨に濡れても怪我しない。そんな当たり前の事に気付いた場所だった。
都会に住んでいた時は、雨が嫌いだった。服が濡れることが気になり、混み合った電車の中で他人の傘がぶつかることにイライラしていた気がする。雨は革靴とも相性が悪かった。靴の中が蒸して気持ち悪かった。どんどん、どんどん雨から遠ざかりたかった。
雨の中で自然は活性化する。花や木々は潤い、田んぼではカエルが大合唱を始める。野鳥は意外と雨でも活動をしている。水浴び場が増えて楽しそうだ。鹿や狐、熊はどう思っているのだろう。雨の日に、自然の中に入ると、都心の電車の中では見えてこなかった世界がある事に気付く。
なので、今では梅雨の時期が嫌いでは無いのだ。ただ、北杜市は沖縄とは違い、雨で身体が冷えやすい。そのため雨合羽は必須。素材は少々値がはってもゴアテックスが良い。雨合羽を手に入れるだけで、晴れてなくとも、雨でもどんどん山の中へ、自然の中に遊びに行ける。布一枚の上を流れる雨水の流れを感じながら歩くのが楽しい。雨合羽は魔法のマントだと気付く。そして雨が楽しいと気付くと、自然に少し近づいた自分がいると感じる。北杜市の六月はそんなことを教えてくれるでしょう。
(八ヶ岳事務所 大久保武文)